平和を祈る綴れ織り工芸家 遠藤虚籟

綴れ織りの芸術性が高め、美術織物としての価値を生み出した遠藤虚籟(きょらい)。
綴れ織りの祖の生涯と足跡。

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順霊の旅立ち

遠藤虚籟は本名を順治といい、明治23年(1890)12月20日、山形県田川郡大宝寺村(現在の鶴岡市宝町7丁目付近)に生まれた。
明治39年(1906)、16歳の虚籟は画家を志し、旧制庄内中学校を退学して上京。苦学して大平洋画会研究所で中村不折に師事し、専らデッサンを学ぶ。しかし生活の糧を得るためのアルバイト等の過労がたたり、やがて健康を害した虚籟は、画家になる夢を断念せざるを得なかった。

貧困と挫折の不安な日々を送る虚籟であったが、新宗教運動「新生教団」の宮崎虎之助に出会い、強い感銘を受ける。多感な青年虚籟は、精神革命を説く宮崎に共鳴して入信し、伝道活動に邁進するのである。

大正5年(1916)、宮崎夫人は伝道中に喀血して死ぬ。この壮絶ともいえる最後を目撃した虚籟は、世の無情を痛感し、黒染めの衣を見にまとい、東京から千葉、福島、山形と托鉢の旅に出た。虚籟26歳のことであった。

遠藤虚籟

遠藤虚籟(1890-1963)

金峯山 天澤寺

虚籟の生地(山形県鶴岡市宝町)

虚籟はこの「奥州四百里乞食行脚」の体験を、後に『順霊の跡』(昭和12年・同文社発行)として著している。「巡礼」でなく「順霊」なる造語を用いたのは「人みな霊より来り霊に還る」ものとして「人生は霊に導かれ霊に順う順霊の旅である」という信念に基づくものだという。

ひたむきに人生の真実を見極めようとする虚籟にとって、若き日の順霊の体験と心証は、その後、求道者として虚籟の歩む人生の原風景となるのである。後年虚籟は、彼の生涯の悲願となった綴錦織曼荼羅の制作も、つまるところ「この順霊の旅の続きであった」と述懐している。


 

綴錦織との出会い

大正11年(1922)秋、虚籟は関西への伝道の旅次、信仰の友であった大久保寿磨を訪問する。そこで大久保夫妻が綴錦織を織っているのをたまたま見て「世には、こうした芸術もあるのか」と感嘆し、早速、その伝統技術を伝授してくれるよう頼み込んだ。これを虚籟は「私の綴織工芸への門出でもあり、人生行路における、綴織り順霊の旅立でもあった」と述べている。虚籟32歳のことであった。


 

綴錦織作家として

虚籟は大久保家に50日ほど滞在し、綴錦織の手ほどきを受ける。この年、虚籟と妻いく子との間に生まれた長女昌子を亡くしている。そんな落胆の中、東京から埼玉に転居した虚籟は、慣れない日雇いの労務者として働きながら、ポツポツと綴錦織の小品を織るようになる。

翌大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災に見舞われたことをきっかけとして、虚籟はこれまでの放浪生活に決別し、本気で綴錦織作家として生きる決意をする。大正13年(1924)、安房北条(現在の千葉県館山市)へ一家で移り住んだのである。
錦綴織の職業作家としての道を歩みだした虚籟であるが、かねて習得したことがあるデッサンと違い、消してやり直すことができない綴錦織制作の苦心は大変なものであった。

綴錦織の技術の追求をすればするほど、研鑽に励めば励むほど、家計は窮乏し、家族の困難は筆舌に尽くしがたいものであった。当時4・5歳の長男哲雄が、食事の際に、具のない味噌汁の味噌豆を欲しがって「豆食う、豆食う」と言うのを聞いたときは、思わずホロリとしたという。

虚籟画「林檎」油彩

虚籟画「林檎」油彩

高村光太郎が虚籟に与えた木彫の「鯰」

高村光太郎が虚籟に与えた木彫の「鯰」

綴錦織「芭蕉の図」壁掛 虚籟作 第1回日本美術工芸展出品 入選

綴錦織「芭蕉の図」壁掛 虚籟作
第1回日本美術工芸展出品 入選

そうした中で、早くから虚籟に注目し、激励したのが、高村光太郎であった。高村光太郎は日本工芸美術展覧会に出品するように勧めたが、虚籟が窮乏のために制作できないことを知ると、木彫りの「鯰」を与え、これを売って、制作費に当てるようにと励ましたのである。感激した虚籟は綴錦織壁掛「芭蕉の図」を織り上げ、出品すると見事入選を果たしたのである。大正14年(1925)、虚籟35歳であった。


 

文展無鑑査に

初の公募展入選に意を強くした虚籟は「水のほとり」、「樹下情遊」と精力的に連続して制作。昭和5年(1930)に綴錦織壁掛「日まわり草」が帝展に入選。4ヶ月以上もかけて織り上げた大作、綴錦織壁掛「水辺」も昭和7年(1932)の帝展に出品され連続入賞を果たし、さらにそれに倍する大作「陶窯の図」を今度は5ヶ月かけて制作し、昭和8年(1933)の帝展に出品。みごと特選となったのである。昭和9年(1934)引き続き綴錦織壁掛「牡丹の図」を出品し入選するのであるが、過労で倒れたため、翌年、家族と共に安房北条から東京に引き上げることにした。

翌年11年(1936)に帝展が改組され文展となり、虚籟はその第1回文展に無鑑査招待として豪華な三曲衝立「白孔雀の図」を出品。これ以後、文展無鑑査の資格を得るのである。この「白孔雀の図」は家が買えるほどの値で売れたのであるが、虚籟はそれを全て奥州四百里の托鉢の記録である『順霊の跡』の自費出版の費用に当てて使い切ってしまったという。

綴錦織「樹下情遊」 虚籟作

曲衝立「白孔雀の図」 虚籟作 姫路城迎賓館備付

曲衝立「白孔雀の図」 虚籟作 姫路城迎賓館備付