平和を祈る綴れ織り工芸家 遠藤虚籟

綴れ織りの芸術性が高め、美術織物としての価値を生み出した遠藤虚籟(きょらい)。
綴れ織りの祖の生涯と足跡。

  • HOME
  • 遠藤虚籟について02 綴錦織曼荼羅発願〜

綴織錦曼荼羅発願

綴錦織作家としての虚籟の名声は高まり、第一人者としての地位も固まったが、そんな虚籟に立ち塞がったのが、昭和15年7月7日交付された奢侈品等製造販売禁止令(贅沢禁止令)であった。虚籟は芸術保護の観点から特に綴錦織の制作を許可されたのであったが、彼は非常時において自分だけ特別扱いされる意味について自問自答した。

山川草木生きとし生けるもの全てを互いに認め尊ぶ、畏敬の気持ちが大切だと気付き、戦乱の中で、敵味方の区別なく総てに対する追悼と世界平和の祈りとして、大慈悲の表れである阿弥陀如来を中心にする一大浄土変相曼荼羅を綴錦織で制作しようと発願するのである。このとき虚籟は50歳であった。

「綴錦曼荼羅中央部 三尊佛」下絵 虚籟画

「綴錦曼荼羅中央部 三尊佛」下絵 虚籟画


 

安房へ、そして出会い

文展入選当時の秋野

秋野は明治41 年(1908)9月22日、大分県大分市に生まれた。父は安房郡豊田村(現在の丸山町)の出身で、大分県立大分第一高等女学校の校長を長く務めた教育者である。母の生家は代々松江藩の家老職であったといい、秋野もそのような教育を受けて育った。秋野は大正15年(1926)、父の大分県立大分第一高等女学校を卒業。昭和4年(1929)、父の定年退職に伴い、一家は父の故郷に引き上げることになり、秋野も安房に住むことになる。

昭和9年(1934)、秋野26歳のとき、紹介する人があって安房北条にいた遠藤虚籟の下で綴錦織を習うことになった。当時、綴錦織作者として名声が高まり、世間の注目を浴びていた虚籟であったので、たくさんの入門希望者がいたようだが、カルチャースクールのようになるのを嫌った虚籟は、その後弟子を取るのをやめてしまったという。


 

新進女流作家、和田秋野

虚籟は秋野に綴錦織を習うならばお稽古事でなく、展覧会へ出品を目指して織るように指導した。秋野は綴錦織に当初それほど強い関心があったわけではなかったというが、それでもまじめに通って熱心に学んだ。

勧められるまま、その年の秋に商工省輸出貿易展に「鳳凰模様」のテーブルセンターを出品したところ、みごと入選する。習い始めて半年という快挙であった。さらに制作に励み翌昭和10年(1935)、新人作家の登竜門ともいうべき上野美術協会展に、貝を図案化したテーブルセンターを出品し連続入選を果たした。

綴錦織「牡丹」 秋野作

綴錦織「牡丹」 秋野作

綴錦織「花籠」壁掛 秋野作

綴錦織「花籠」壁掛 秋野作

この年、過労で倒れた虚籟一家が東京に移ったため、秋野は自宅で絵を描き、時折上京しては虚籟の指導をうけるという生活を1年余り続けるのだが、その後昭和11年(1936)、虚籟から助手に乞われて上京することになる。

こうして秋野は虚籟の家に住み込み、その家族と生活を共にしながら、虚籟の仕事を手伝い、その合間に、自分の展覧会出品用の作品を織るという厳しい生活を始めた。睡眠の時間を惜しんで制作に励んだ秋野は、その年の春、帝展に、紫陽花に鳥と魚を配した綴錦織壁掛「花籠」を出品し入選した。
さらに同年の秋の文展に綴錦織壁掛「フラミンゴの居る」を出品、これも入選した。秋野28歳。この連続入賞を誰よりも喜んだのは、彼女の父であったという。

勢いに乗った秋野は、昭和12年(1937)春、上野美術協会展に牡丹模様のクッションを、同年秋には上野実在美術工芸展に綴錦織ハンドバッグを、13年(1938)の商工省輸出貿易展には魚をのせた皿をデザインした綴錦織「海の幸」テーブルセンターをそれぞれ出品して、いずれも入選を果たしている。

さらに15年(1940)秋に、東京都美術館で行われた皇紀紀元2600年奉祝記念美術展に、父が栽培していた洋蘭をモチーフに、「洋蘭のある綴錦織壁掛」を出品して入選、好評を博すが、秋野はこの傑作を最後に出品する作品の制作を封印してしまう。これ以降は、虚籟の世界平和祈願綴錦曼荼羅制作という大事業の実現のため協力し、私を捨てて裏方に徹するのである。

綴錦織「洋蘭図」壁掛 秋野作

綴錦織「洋蘭図」壁掛 秋野作


 

世界平和祈願綴錦曼荼羅

虚籟は一切の戦争犠牲者の冥福と世界平和を祈願する綴錦織浄土曼荼羅を織ろうと決心、その悲願を成就すべく、彼の最後の順霊の旅に同行してくれるように、秋野に頼んだのである。

二人は仏教関係の専門書を読み漁り、実際に奈良・京都、各地の古刹を巡拝し、仏像を拝み、研究に没頭した。


 

疎開、そして終戦へ

これ以降、虚籟は仏像制作に専念して、生活のために作品を織らなかったので、秋野が代わって、帯や、ハンドバッグを織って生計を支えなければならなかった。今日虚籟作と伝えられる小品の多くは、秋野が織ったものが多い。

昭和19年(1944)、戦局の悪化とともに、東京での綴錦織制作を断念して、虚籟の郷里鶴岡への疎開を決心する。しかし、頼りとする郷里の親戚にとっては、虚籟一行は歓迎されない客であったという。厳寒の中、凍死から逃れるために、命がけで守り続けた織機を涙ながらに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて、燃やし暖を取ったという。こうした鶴岡での困難な疎開生活であったが、昭和20年(1945)8月、わが国は無条件降伏して苦しい戦いが終わったのである。