平和を祈る綴れ織り工芸家 遠藤虚籟 綴れ織りの芸術性が高め、美術織物としての価値を生み出した遠藤虚籟(きょらい)。 綴れ織りの祖の生涯と足跡。 HOME 遠藤虚籟について03 制作再開〜 制作再開 敗戦後の混乱の中で、鶴岡の名族風間家の別邸「無量光苑」を綴錦織制作の工房として曼荼羅中尊阿弥陀如来の謹作にとりかかるのである。 さらに虚籟にはもうひとつ夢があった。それは、この故郷鶴岡に綴錦織の技術を伝え残したいということであった。しかし、資金も、色糸の貯えもなかった。そのため、秋野の大切に持ってた作品、最初の帝展入選作「花籠」を売って金に換え、もう一つの文展入選作「フラミンゴの居る」をほぐして受講生用の色糸に使用したのである。 長男哲雄が南方で戦死したこともあり、虚籟の家庭は崩壊寸前であった。秋野にとってもこの軋轢に巻き込まれ、心身とも疲れ果て、すっかり嫌になってしまい房州に帰ることも考えたという。 無量光苑/風間家別邸 こんな虚籟たちの窮状を見かねた鶴岡の隣町にある天澤寺の住職が檀信徒を回り、後援会を作り、浄財を集めて支援したのである。 こうした人々の善意に支えられて、昭和25年(1950)3月31日の払暁、「綴錦織曼荼羅中尊阿弥陀如来像」が完成したのである。このとき虚籟60歳、秋野42歳であった。 綴錦織「戦争犠牲者彼我一切万霊供養 世界平和祈願綴錦曼荼羅 中尊阿弥陀如来像」 虚籟作 金峯山 天澤寺 加藤清正公墓碑(山形県指定史跡)のある古刹 国連本部へ 秋野の協力により完成した虚籟の「綴錦織曼荼羅中尊阿弥陀如来像」は、仏教連合会と、日本仏教鑽仰界によって、第2次世界大戦の犠牲者の冥福を祈り、あわせて国際連合の平和努力に対する感謝の意思を表すため、全日本仏教徒の総意として国際連合本部に贈呈されることになった。 11月13日京都知恩院にて岸信宏浄土門主が導師となり、京都仏教会及び関西仏教学生連盟の主催で約1000名が会同し、厳かに贈呈式が厳修されたのである。 再び館山へ 昭和26年(1951)、ニューヨークの国際連合本部に「綴錦織曼荼羅中尊阿弥陀如来像」が無事に納められ、ほっとするのもつかの間、風間家別邸(無量光苑)から立ち退かなくてはならなくなる。それに追い討ちをかけるように、ついに妻いく子が虚籟のもとを去ってしまう。行き場に困った虚籟の窮状を救ったのは、やはり天澤寺住職であった。虚籟と秋野は天澤寺の庫裏を借りて綴錦織の制作を続けることができたのである。 しかし翌27年(1952)1月、虚籟は風邪をこじらせ50日余病臥することになる。こうした健康上のことも考えて、暖かい房州館山に再度移ることにした。館山市内城山の麓にある慈恩院住職の好意にすがったのである。 暖かいのは気候だけでなく、館山病院院長穂坂與明、副院長川名正義など、人々も暖かく虚籟たちを迎え入れた。ここで、アメリカ海軍横須賀基地司令官マクマネス中将に贈る「一葉観世音菩薩像」を織り上げた。 その後、館山市八幡に工房を移し、いよいよ本格的に綴錦織制作に取りかかった。虚籟の持てる力を余すことなく発揮し、こぼれんばかりの色彩にあふれた、「脇侍観世音菩薩像」が見事完成するのであった。この像は栃木県出流山満願寺に奉納されている。 綴錦織「戦争犠牲者彼我一切万霊供養 世界平和祈願綴錦曼荼羅 中央部 脇侍勢至菩薩像」 虚籟作 栃木県満願寺奉納 白衣勢至菩薩 綴錦織「戦争犠牲者彼我一切万霊供養 世界平和祈願綴錦曼荼羅 中央部 脇侍勢至菩薩像」 虚籟作 東京・浅草寺奉納 前作「脇侍観世音菩薩」に総ての色糸を使い尽くしたため、次の「脇侍勢至菩薩」は貧窮の末、白糸だけで織り上げなくてはならなくなった。白糸のわずかな色合いの違いを細かく分類し、細心の注意を払い3年の歳月をかけて織り上げたのである。まさに無垢清浄の菩薩像が完成したのである。この像は、東京・浅草寺に奉納されている。 あなたがいたからこそ こうして虚籟は念願の綴錦曼荼羅中央部の三尊仏を完成させた。曼荼羅謹作を発願してからすでに17年、三尊仏だけでもこの間10年の歳月が経過している。 虚籟は「これで自分もやっと芸術家として満足できる作品を後世に残すことができた」といって安堵し喜んだ。秋野は同志ではあるが自分を一人の芸術家としてみたとき、何か取り残されたような寂しさを感じて、「私は何もできなかった」とつぶやいたという。 これを聞いた虚籟は「何もしなかったのではない。これはみなあなたがいたからこそできた合作である」と感謝したという。虚籟67歳、秋野49歳になっていた 館山市無形文化財第1号 昭和33年(1958)、虚籟は館山市から市の無形文化財第1号の指定を受けた。また、これより先、館山市八幡地区は彼らを自分の仲間として、名誉区民にしている。こうした人々の温かい善意に励まされて、次の大作「天平の春」の制作に取り組むが、体力の限界が近づいてきていた。 昭和36年(1961)にこの作品を完成させた2年後、昭和38年(1963)12月26日、脳溢血のため仏のおわす曼荼羅世界へと突然旅立った。友人たちの手により葬送はしめやかに行われ、八幡の区民共同墓地に葬られた。享年73歳であった。 一方、影で虚籟の生涯を支え続けた和田秋野は、昭和48年(1973)館山市無形文化財の指定を受け、昭和57年(1982)には千葉県無形文化財保持者となった。63年(1988)には国から地方文化振興の功労者として表彰された。平成29年(2017)108歳で逝去。 綴錦織「天平の春」壁掛 虚籟作 綴織錦曼荼羅糸塚 虚籟は生前、「仏像になった絹糸は、それが仏像になるがゆえに香を薫き、灯明を灯して、さらに花なぞを供えて衆人礼拝の対象となるが、同一の絹糸でありながらその謹作時において端糸屑糸となったが故に、省みられることなく或いは空しく捨て去られる運命にある」糸屑を悼んで、彼がその曼荼羅行脚中最も険難な時を過ごした天澤寺に、将来この糸屑を供養する塔を建て、日本人の至情を後世に伝えると共に、ここを世界平和発祥の地たらしめたいと願ったという。 綴錦織曼荼羅糸塚は、虚籟の念願に応えて、虚籟没後25周年を記念して、故郷鶴岡の友人や彼を敬愛してやまない人々が心を合わせて建てたものである。その後、館山から虚籟の遺骨はこの地に改葬され、香煙が絶えることがない。 参考図書 「順霊の綴錦織 —世界平和の祈願に生きた遠藤虚籟・秋野の芸術と思想—」 和田修二編(1994)/一燈園 燈影舎発行 虚籟曼荼羅糸塚 《 前のページへ 最初のページへ戻る